2011年6月30日木曜日

ぼくの図書館カード












「ぼくの図書館カード」(ウイリアム・ミラー/文 グレゴリー・クリスティ/絵 斉藤規/訳  新日本出版社 2010)

〈ぼくは、母さんの話を聞くのがとても好きだ。南部の農場で母さんは生まれ、そこで育った。母さんは農場や村のことについてたくさんの話をしてくれた〉

〈奴隷だったおじいさんは、主人のいる農場から逃げ出し、北軍に加わって、南部の反乱軍とたたかった〉

〈ぼくは面白い話を自分の力で読みたいと思った。でも、貧しかったから、家に本はなかった〉

〈ぼくは学校にはほとんどいかなかった。勉強は母さんが時間があるとき、新聞の漫画のページを、大きな声でゆっくりと、ことばがはっきりとわかるように読んでくれただけだった〉

〈ぼくはひとりで本が読めるようになっても、自分の本をもつことはなかった。本は高価で買うゆとりなどなかったんだ。そして、図書館から本を借りることもできなかった。町の図書館は、公園や運動場と同じように、黒人の利用が禁止されていた〉

17歳のとき、テネシー州の北西にあるメンフィスという町に移った〈ぼく〉は、そこで仕事をしてお金をため、さらにシカゴに移ろうと考えます。〈ぼく〉はメンフィス中を歩きまわって、やっとメガネ屋で下働きの仕事をみつけ、そこで、本が読みたくてたまらないことをわかってくれる白人のひとに出会います──。

アメリカの黒人作家リチャード・ライトの自伝、「ブラックボーイ」(岩波文庫 2009)をもとにした絵本です。このあと、職場のフォークさんが貸してくれたカードを手に、〈ぼく〉は怪しまれないかとどきどきしながら図書館で本を借りてきます。

〈その夜、夢中で本を読んだ。夜が明けはじめるまで、ディケンズ、トルストイ、スティーブン・クレインを読んだ。本には、肌の色が白いにもかかわらず、ぼくのように苦しい境遇にあるひとびとが描かれていた。ぼくが追いもとめる自由を、同じように望んでいるひとびとがいた〉

絵は、水彩でざっとえがいた臨場感のあるもの。本を読むことにより、自由への力を得た少年の、胸を打つ読物絵本です。小学校高学年向き。

2011年6月29日水曜日

ママ、ママ、おなかがいたいよ










「ママ、ママ、おなかがいたいよ」(レミー・チャーリップ/文 バートン・サプリー/文 レミー・チャーリップ/絵 つぼいいくみ/訳 福音館書店 1981)

「ママ、ママ、おなかが痛いよ」と、ぼうやが訴えました。ママはすぐ電話でお医者さんを呼び、お医者さんはすぐ馬車で駆けつけました。丸まると太った、顔が真っ青のぼうやをお医者さんは病院につれていき、おなかになにが入っているのかをしらべてみると──。

ぼうやのお腹のなかからは、りんごやボールやバースデーケーキなどが次つぎとあらわれます。

絵は影絵のようにシルエットで表現され、ぼうやのお腹からでてきたものは着色されています。お腹からでてきたものは、スパゲッティにソーセージ、釣り竿にヒラメ、お茶の入ったポットにカップにクッキー、ウサギに帽子、靴とブーツ、そのほかいろいろ。だんだんエスカレートしていくさまが楽しいです。チャーリップは「よかったねネッドくん」の作者として高名です。小学校低学年向き。

2011年6月27日月曜日

11ぴきのねこ












「11ぴきのねこ」(馬場のぼる/作 こぐま社 1978)

いつもお腹をすかせている11匹のノラネコがいました。小さな魚をつかまえましたが、トラネコ大将が魚を11等分に分けると、ほんの一切れにしかなりません。そんなとき、ひげの長いじいさんネコがやってきていいました。「あの山のずっとむこうに広い湖がある。そこに怪物みたいな大きな魚がすんでいるわい」。そんなに大きな魚なら、お腹いっぱい食べられるぞと、11匹は湖めざしてでかけました。

湖にたどり着いた11匹は、イカダをつくり、湖の小島に上陸して、大きな魚があらわれるのを待ちます。ある日、ついに魚が姿をあらわし、ネコたちはいっせいに飛びかかるのですが──。

すでに古典となった「11ぴきのねこ」シリーズの第1巻です。馬場のぼるさんの漫画調の絵が、とぼけた味わいのストーリーにぴったりとあっています。また、絵と、省略の効いた言葉とのバランスもじつに絶妙です。11匹のネコたちは苦労のすえ、ついに大きな魚をしとめるのですが、最後になんともいえない愉快なラストが待っています。小学校低学年向き。

2011年6月24日金曜日

ぼくのぱん わたしのぱん












「ぼくのぱん わたしのぱん」(神沢利子/文 林明子/絵 福音館書店 1992)

お姉ちゃんと、弟と、そのまた弟の3人が、パンをつくるお話です。

パンはなにからできるのかな? 小麦粉、塩、砂糖。それから、水と玉子とバター。そして、なくてはならないものにイーストがある。イーストは酵母というカビで、砂糖をうすく溶かしたお湯に入れると、入道雲のようにふくらんでくる。イーストが砂糖を食べて、さかんにガスをだすからだ。

イーストがふくらんだら、小麦粉と砂糖と塩と玉子と水をよくかき混ぜて、ふくらんだイーストと一緒に粉にそそいでこねる。最後にバターを入れてよくよくこねる。ボールに入れて、あたたかいところに置いてふくらませ、指でさしてガスを抜き、もう一度まるめて休ませる。

またふくらんだら、かたちをつくって、すぐ焼きたいところをもう少し待って、またふくらんだところに玉子の黄身をはけで塗ってやり(こうすると栗色に光る)オーブンへ──。

ページの上方に文章があり、その下に絵があるという構成です。文章も展開も大変リズミカル。絵は、たんなる文章の説明ではなく、ちゃんと3人の物語が感じられるようにえがかれています。ときどき、絵のなかに時計があらわれ、パンづくりにかかる時間を教えてくれます。それによると、材料を混ぜてから焼き上げるまで5時間ほどかかっています。林明子さんの絵はこの本でも素晴らしく、特に玉子やサランラップなど、透明なものの表現には目を見張ります。読むとパンづくりをしてみたくなる、魅力に富んだ一冊です。小学校低学年向き。

2011年6月23日木曜日

サー・オルフェオ












「サー・オルフェオ」(アンシア・デイビス/再話 エロール・ル・カイン/絵 灰島かり/訳 ほるぷ出版 2004)

いにしえの世に、サー・オルフェオと呼ばれる王様がおりました。この王様は、勇敢で慈悲深いだけでなく、竪琴を手にするとたぐいまれな調べをかなでることができました。サー・オルフェオには、ヒュロデスという名の、うるわしいお妃がおりました。ある日、りんごの木の下でまどろんでいたお妃は、絹のような悲鳴をあげ、お城にかけこんでいきました。なにごとが起こったのかとサー・オルフェオがたずねると、お妃は、「不気味な大王がやってきて、わらわを彼の国に連れてゆくのです」とこたえました。

翌日、サー・オルフェオは愛するヒュロデスの手を握りしめ、よりすぐりの騎士たちに円陣を組ませ、りんごの木の下で敵にそなえるのですが、お妃は忽然と姿を消してしまいます。そして、サー・オルフェオは国を家老にまかせ、竪琴だけを手にしてヒュロデスをさがす旅におもむきます──。

中世の英国で、吟遊詩人たちにうたわれた歌をもとにした絵本です。訳者あとがきによれば、このサー・オルフェオの物語は、ギリシア神話のオルフェウスの物語に、ケルトの伝承が混ざってできあがったものだそうです。オルフェウスは妻をもとめて死の国へおもむきますが、サー・オルフェオは不思議な国(妖精の国)を訪れます。ル・カインの装飾的な絵は、ケルトの文様で装飾された「ケルズの書」という古い手書きの聖書を参考にしたそうです。訳文も物語にあわせて古風な味わいのものになっています。小学校中学年向き。

2011年6月22日水曜日

もう一羽のがちょう












「もう一羽のがちょう」(ジュディス・カー/作 まつかわまゆみ/訳 評論社 2002)

カテリーナのすむ池には、ほかにガチョウはいませんでした。カテリーナはいつもさびしい思いをしていました。ところがある日、カテリーナはもう一羽のガチョウをみつけました。そのガチョウは、ピカピカ光る車のドアにいました。

車のドアにうつった自分の影を仲間だと思ったカテリーナは、「いつかきっとでてきてくれるわよ」と思います。そして、クリスマスイヴ、雪に包まれた車をみたカテリーナは、「とうとうでてきてくれたんだ」と喜ぶのですが──。

作者のジュディス・カーは、「おちゃのじかんにきたとら」の作者として高名です。絵は色鉛筆でえがかれたもの。このあと、車からでてきた仲間をさがしにでかけたカテリーナは、思わぬ事件にでくわします。小学校中学年向き。

2011年6月17日金曜日

どろんこハリー










「どろんこハリー」(ジーン・ジオン/文 マーガレット・ブロイ・グレアム/絵 わたなべしげお/訳 1964)

黒いブチのある、白い犬のハリーは、お風呂に入るのが大嫌いでした。ある日、お風呂にお湯を張る音を聞いたハリーは、ブラシを裏庭に埋めてしまいました。そして、道路工事や、鉄道線路の橋の上や、石炭トラックで遊んですっかり真っ黒けになってしまいました。

さて、真っ黒になったハリーはお腹をすかしてうちに帰るのですが、家族はだれもハリーだと気づいてくれません。逆立ちしたり、宙返りしたり、知っている芸当をみんなやってみせるのですが、わかってもらえず、門のほうにとぼとぼ歩いていくのですが──。

すでに古典となった絵本です。絵は、黒とオレンジと緑の3色でえがかれた、ちょっとマンガ風のもの。ストーリーは無理なく、なめらかに進んで、ハッピーエンドにたどり着きます。私事ですが、子どものころこの絵本を読んだとき、2階にお風呂があるのにびっくりしたことを思い出しました。小学校低学年向き。

2011年6月16日木曜日

あまがさ











「あまがさ」(八島太郎/作 福音館書店 1999)

モモは3つの誕生日に、2つの贈りものをもらいました。それは、赤い長靴と雨ガサでした。あんまりうれしかったので、モモは夜中に目をさまし、もう一度ながめたほどでした。ところが、あいにく暑い日が続き、お日様は毎日照っていました──。

モモは毎朝、幼稚園にいくとき、「どうして雨ふらないの?」とお母さんに訊きます。お母さんの返事はいつも同じです。「お待ちなさい。そのうち降るわよ」。雨の待ちきれないモモは、お日様がまぶしいからとか、風が吹いて目が痛くなるからとかいっては、カサをさそうとしてお母さんにたしなめられます。でも、ある朝、ついに雨が降って──。

八島太郎のえがく絵は、少ない色あいながら、大変カラフルです。雨が路面に降っている表現など、こんな風に雨をえがいたひとはほかにいないのではないかと思わせます。雨が降った日、モモは生まれてはじめて雨ガサをさしながら幼稚園にいくのですが、それはまた別のはじめてでもあったと、ストーリーはノスタルジックなおもむきで締めくくられます。小学校低学年向き。

2011年6月15日水曜日

ながいながいよる












「ながいながいよる」(マリオン・デーン・バウアー/文 テッド・ルウィン/絵 千葉茂樹/訳 岩波書店 2001)

雪が深くつもった、静かな夜の森に、風が吹きました。風は、クマとネズミが眠っている穴に入りこんでいいました。「ここはただ、暗くて寒いだけ」。雪の上では、カラスが鳴きました。「太陽がいなくなって、ずいぶんたつじゃないか。このおれが連れもどしてやる」。すると、風がため息をつきました。「ちがうちがう。あなたじゃない」──。

ヘラジカやキツネも、太陽を連れもどしてやると息巻きますが、そのたびに風は、「ちがうちがう」といいます。そして、「お日様をとりもどすのは一体だれなの?」といっている小鳥にこたえます。「あなたよ。あなたにしかできない」。

寒い冬の夜、太陽が昇るまでをえがいた絵本です。冬の夜はじつに冷えびえとしていますし、動物たちのしぐさは、じつにたくみにえがかれています。ラスト、夜が明ける瞬間が印象深い、詩的な絵本です。小学校中学年向き。

2011年6月14日火曜日

ふたごのベルとバル












「ふたごのベルとバル」(ヤニコフスキ・エーヴァ/作 レーベル・ラースロー/絵 うちかわかずみ/訳 のら書店 2008)

ベルタランとバルナバーシュは双子のダックスフンドです(長いので、ベルとバルと呼ばれています)。2匹はボルバラおばさんから、ボルディおじさんへの誕生日プレゼントでした。おじさんとおばさんは、ベルとバルがきた日から、2匹のことで頭がいっぱいになって、2匹に、しましま模様の毛布と、チェックの枕と、花模様のお皿と、水玉のボールをひとつずつ買ってあげました。でも、2匹はちっとも幸せではありませんでした。というのも、おじさんとおばさんときたら、いつも2匹をまちがえるのです。

おじさんとおばさんは、まちがえないように2匹に青と赤のリボンを結ぶことを思いつきます。青いほうがベル、赤いほうがバルでしたが、それでも2人はベルとバルを逆に呼んでしまいます。そこで、ベルとバルは名前を交換するしかないと思いつめるのですが──。

ハンガリーの絵本です。絵は澄んだ色あいが美しい、イラスト調のかわいらしいもの。このあと、ベルとバルはついに家出を決行するのですが、妙案を思いつき、ふたたび家にもどります。ゆったりとした語り口の、ユーモラスな読物絵本です。小学校中学年向き。

わすれんぼうのねこモグ












「わすれんぼうのねこモグ」(ジュディス・カー/作 斎藤倫子/訳 あすなろ書房 2007)

トーマスさんの家族と暮らすモグは、大変忘れんぼうなネコでした。ごはんを食べたのに、またおねだりをしたり、足をなめている途中で、「なにして遊ぼうかなあ」なんて考えて、片足をあげっぱなしにしたりしていました。台所についている「ねこドア」のこともしょっちゅう忘れ、そのたびに台所の窓辺にすわって、にゃあにゃあ鳴いて、だれかが気づいてくれるのを待ちました。おかげで、窓辺の花はぺっしゃんこになってしまいました。

ほかにも、モグはテーブルの上にあがってニッキーの玉子を食べたり、お母さんの帽子の上で眠って、帽子を台なしにしたり、テレビの上に陣取り、シッポでお父さんがテレビをみるのをジャマしたりします。そのたびに、みんなに「こまったネコだ!」といわれるので、モグは「みんなわたしを怒ってばかり」としょんぼりするのですが──。

忘れんぼうのネコ、モグのお話です。このあとモグは大手柄をたてて「こまったネコ!」と、あんまりいわれなくなります。作者のジュディス・カーは、「おちゃのじかんにきたとら」の作者として高名です。また、モグを主人公にしたこの絵本はシリーズ化されています。ネコを飼ったことのあるひとなら、「シッポでテレビのジャマをする」ところなど、思い当たるところがありそうです。モグの愛らしさがよくえがかれた楽しい一冊です。小学校低学年向き。

2011年6月10日金曜日

いつかはきっと









「いつかはきっと」(シャーロット・ゾロトフ/文 アーノルド・ローベル/絵 やがわすみこ/訳 ほるぷ出版)

いつかはきっとこうなる――と考える女の子のお話です。

〈いつかは ね……
 おにいちゃんが あたしを
 おともだちに
 しょうかいしてくれるの。
 「ほら うちのちびさ」
 なんて いわずに
 「ぼくの いもうとです」 って。

 いつかわ ね……
 バレエのおけいこに いくと
 バードせんせいがおっしゃるの。
 「エレンを ごらんなさい あの じょうずなこと」〉

原題は「SOMEDAY」。毎回、「SOMEDAY」の文字が飾り文字でえがかれ、それが「いつかわね…」と訳されます。次から次へとえがかれる、女の子の願いがほほえましい、可愛らしい一冊です。小学校低学年向き。

2011年6月9日木曜日

おぎょうぎのよいペンギンくん












「おぎょうぎのよいペンギンくん}(マーガレット・ワイズ・ブラウン/作 H.A.レイ/絵 ふくもとゆみこ/訳 偕成社 2000)

アライグマの家でスープを飲んでいたペンギンくんは、お腹がいっぱいになったので、残りを床に捨ててしまいました。「ちょっと、よくそんなことができますね!」と、アライグマは怒りました。南極育ちのペンギンくんは、マナーというものを知らなかったのです。そこで、アライグマはペンギンくんに、マナーを教えることにしました。

まず、アライグマは「デザート早くう!」と叫ぶペンギンくんをたしなめます。「ひとになにかもってきてほしいときは、そんなふうにいうもんじゃありません。──こういうふうに頼むの。すみませんが、デザートお願いしますって」「ずいぶん長いのね。そんなに長ながいっってたら、いつまでたってもデザートこないよ」「こういわなけりゃ、デザートはますます遅くなります」「わかったよ、ちょっとでも早くでてくるんならいうよ。──お願いします」──。

絵を描いたH・A・レイは、「おさるのジョージ」シリーズや、「ポケットのないカンガルー」などで高名。また、マーガレット・ワイズ・ブラウンは「おやすみなさいおつきさま」や「ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ」などの作者です。このあと、外にでかけたアライグマとペンギンくんは、ダチョウに会ったり、完璧なマナーのもち主であるシャムネコさんのうちで夕食をごちそうになったりします。ペンギンくんとアライグマの、落語のようなかけあいが楽しい一冊です。小学校中学年向き。

2011年6月8日水曜日

青い花のじゅうたん












「青い花のじゅうたん」(トミー・デ・パオラ/再話・絵 いけださとる/訳 評論社 2003)

三日のあいだ、コマンチ族は太鼓の音にあわせて踊りました。ようやく冬が終わりましたが、命をあたえてくれる雨は降りません。生き残ったわずかな子どものなかに、〈ひとりでいる子〉と呼ばれている女の子がいました。両親を飢饉で亡くした〈ひとりでいる子〉は、母さんがつくってくれた人形をとても大切にしていました。

丘の上から、まじない師がもどってきて、大いなる精霊たちのことばを語りました。「人間は、自分たちのことしか考えなくなってしまった。大地から恵みを受けるばかりで、なにも返そうとしない。大いなる精霊たちは、いけにえをささげるようにいっている。われわれがいちばん大切にしているものを燃やして、供えなければならない──」。

毎年、春になると、アメリカ南部テキサス州の丘は青い花におおわれるといいます。本書は、この青い花の由来について語った、コマンチ族の昔話をもとにつくられた絵本です。巻末の「作者のノート」によれば、青い花は「ブルーボンネット」といい、テキサス州の州花になっているそうです。また、ルピナスとか、バッファロー・クローバーとかいろいろな名前があるといいます(ここで、バーバラ・クーニーの素晴らしい絵本「ルピナスさん」を思い出します)。ひとりの女の子の勇気ある献身をえがいた、美しい一冊です。小学校中学年向き。

2011年6月7日火曜日

まあちゃんのながいかみ










「まあちゃんのながいかみ」(たかどのほうこ/作 福音館書店 1995)

はあちゃんと、みいちゃんは長い髪が自慢です。でも、まあちゃんの髪は短いおかっぱです。はあちゃんと、みいちゃんが、背中がぜんぶかくれるくらい髪をのばす、というのを聞いたまあちゃんは、「あたしなんかね、もっとずっとのばすんだからね」といいます。どれくらいのばすかというと──。

橋の上からお下げをたらして魚が釣れるくらい、お下げのロープをびゅーんととばして、牛を捕まえられるくらい、からだに巻けば、そとで寝られるくらい、右のお下げと左のお下げをぴーんと張って木に結べば、うちじゅうの洗濯ものをいっぺんに干せるくらい──。

はあちゃん、みいちゃん、まあちゃんの3人が話す場面はモノクロ、まあちゃんが長い髪について話すところはカラーになります。また、まあちゃんが長い髪について話すところは、しばしば本がタテになります。女の子の話ですが、お話会で読んでみると、その奇想天外ぶりに男の子もよろこびます。まあちゃんの途方もない空想が楽しい一冊です。小学校低学年向き。

2011年6月6日月曜日

きもち












「きもち」(谷川俊太郎/文 長新太/絵 福音館書店 2008)

ほとんど字のない絵本です。男の子が公園で、友だちのおもちゃの車を奪ってしまいます。お母さんと帰る途中、捨てネコをみつけますが、お母さんはかまいません。お医者さんにいき、注射されて、男の子は泣きだします。家では、お父さんとお母さんが口論し、男の子は悪夢をみますが、お父さんとお母さんが枕元にきてくれて、男の子は安心します──。

後半、いままでの場面を解説するように、わずかに文章があらわれます。

〈いろんな きもちが
 うまれては きえ
 きえては うまれる。
 (…)
 こどもも おとなも
 きもちは おんなじ。

 でも じぶんのきもちと
 ひとのきもちは ちがう。
 ひとが どんなきもちか
 かんがえてみよう。〉

絵だけで、登場人物の気持ちをさとらせる描きかたがみごとです。場面が変わると、気持ちもどんどん変わっていき、読んでいてそのことがわかるので、飽きることがありません。何度でも読み返せる出色の一冊です。物語と直接関係はありませんが、長新太さんの描くネコは、なんだか面白い顔をしています。小学校低学年向き。

2011年6月3日金曜日

おどりトラ












「おどりトラ」(金森襄作/文 鄭香/絵 福音館書店 1997)

山をこえた、そのまた山奥に、たくさんのトラが住んでいました。そのなかに、ひまさえあれば踊りをおどっているので、「おどりトラ」と呼ばれているトラがいました。あるとき、おどりトラは、みんなが獲物の鳥を追っている最中に踊りだして、獲物を逃がしてしまいました。そのため、仲間たちから山を追われてしまいました。

さて、山を追われたおどりトラは、一所懸命踊りの腕を磨き、不思議の力を得るようになります。踊ると、大漁豊作になり、病気の子どもも治るのです。踊り上手になったおどりトラの手足は、笛や太鼓の音が聞こえると、ひとりでに踊りだすまでになります──。

韓国・朝鮮の昔話をもとにした絵本です。このあと、おどりトラは昔の仲間がなつかしくなって山にもどり、仲間たちもおどりトラを歓待するために、ごちそうの人間をみつけて木の上に追いつめるのですが──と、物語は続きます。木に登った人間を、はしごをつくって追いつめるあたりから、本をタテにして読む体裁になります。絵は、朝鮮風というのでしょうか。踊りの好きなトラがユーモラスにえがかれています。小学校低学年向き。

2011年6月2日木曜日

スーザンのかくれんぼ












「スーザンのかくれんぼ」(ルイス・スロボドキン/作 やまぬしとしこ/訳 偕成社 2006)

スーザンは隠れるところをさがしていました。というのも、スーザンはクモが大嫌いなのに、兄さんたちはガラスびんに飼っているクモをみせようとするのです。芝生の上で編み物をしているお母さんに隠れ場所を訊いてみると、お母さんは垣根のそばの大きなカシの木を教えてくれました。スーザンがそこに隠れると、垣根ごしに隣りのおばさんが声をかけてきました。そこで、こんどはおばさんに教わり、物置のかげに隠れることにしました。すると、毎週芝刈りにくるゲリーさんに声をかけられました。そこで、こんどはゲリーさんに教わり、大きなバラの茂みに隠れることにしました──。

隠れるところをさがすスーザンのお話です。このあと、スーザンは犬小屋に隠れ、大きな柳の木の下に隠れます。ここまでが前半。後半はお母さんがスーザンをさがして、スーザンの足どりをたどっていきます。

絵はカラーと白黒の絵が交互にくる構成。スロボドキンのえがく水彩には、素敵な明るさがあります。カバー袖の文章によると、この絵本はイタリアの海辺のホテルに泊まっていたとき、本当にあったことをもとにしてえがいたということです。小学校低学年向き。

2011年6月1日水曜日

フルダー・フラムとまことのたてごと

「フルダー・フラムとまことのたてごと」(ロイド・アリグザンダー/作 エヴァリン・ネス/絵 神宮輝夫/訳 評論社 1980)

フルダー・フラム王は、いさましい物語をうたって歩く、吟遊詩人になりたいという願いがありました。古い本を読み、指が腫れあがるほど竪琴の練習をした王様は、仲間にしてもらうために、詩人組合のところにでかけていきました。「なんなりとお試しなされ!」と、王様は自信たっぷりにいいましたが、詩人の長や組合の詩人たちがあれこれ訊くと、おぼえたことはひとつ残らずぱっと飛び散ってしまいました。あげくの果てに、竪琴が手から滑り、こなごなに砕けてしまいました。

すっかり気を落としてしまった王様に、詩人の長は、ひとつの竪琴をさしだします。「あなたはまだまだ勉強しなくてはなりません。この竪琴なら力になってくれるでしょう」。その美しい竪琴は、指がふれるだけで、うっとりするようなメロディが流れでてきます。「これで実力がだせる」と、すっかりご機嫌になった王様は旅にでかけるのですが──。

少々お調子者のフルダー王のお話です。作者のロイド・アリグザンダーは、「プリデイン物語」(評論社 1977)や「人間になりたがった猫」(評論社 1977)といった児童文学で高名です。ちなみに本書は、「プリデイン物語」の別巻の2巻目に当たります。このあと、王様はいろいろと立派なおこないをするのですが、それを大げさにいうたびに、竪琴の糸が切れてしまい──と、物語は続きます。絵は、どんな技法なのかわかりませんが、3色をじつにたくみにつかったもの。「プリデイン物語」を知らなくても楽しめる、じつにユーモラスな読物絵本です。小学校中学年向き。